●CRAナカムラのぱちんこ泰然自若328
はい皆様ご機嫌麗しゅうっ!3月も半ばになりまて、いよいよ春の背中が見えて来る今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
初めてパチンコを打ったのは今から33年前、高校に入学したばっかりの春でした。パチンコの仕組みやら店のルールやら、まったく何も解らずに、
( ゚Д゚)私服なら18歳に見えない事もないでしょ。
とホールに出入りし始め、徐々に色々と覚えて…半年後くらいにはいっちょ前のパチンカーとして開花したのですが、当時の店内ルールって今とは比べ物にならないくらい複雑だったんですよ。
まず、今となっては全機種途中交換なしの無制限営業が当たり前ですが、フィーバー機はラッキーナンバー制・権利物やアレパチはラッキーナンバーと無制限の併用・羽根モノは4000個定量・一発台は一回交換といった多種多様な運用と、さらにラッキータイムのような時間区切りの持ち玉ルールがあったりで、間違って交換せずに打ってたら…それこそ怖いパンチパーマの店員が
(店・ω・)「兄ちゃん何しとるんや?お〜ん?」
とお声がけしてくるので、馴れないホールではやたら緊張感があったりしたのも良いおもひで。
中には、当たったら毎回必ず呼び出しランプで店員を呼ばないとマジトーンで怒られる(しかもどこにもそのルールを書いてない)とか、玉箱を交換するスタッフが決まっていてそれ以外に頼むとブチ切れられたりとか、そりゃーもうパチンコ屋ってのはファンキーな空間だったワケですよ。
無論、スタッフ側もラッキーナンバー制では全ての大当たりを確認しに行って札挿し、4000個箱(20キロ)を2〜3箱一気に持ち上げてのジェットカウンター往復など、仕事量も甚大でめっちゃキツかった。その分時給が高かったとはいえ、副流煙爆発の店内で玉の重さに腰を痛め、異様に煩い様々な音で耳を痛め、理不尽なクレーム客に心を痛めつけられ、ボクのような図太い精神構造とタフな身体じゃなければ続かないのも当たり前だった分、まともな人は入って来てもすぐ居なくなり、いわゆる「ワケアリ」な人々がホールの2階の寮で暮らしながら働いている事が多かった。
と言うのも、当時のパチンコ屋は面接に「身分証明不要」が当たり前で、例えば昨日刑務所から出てきたは良いが、諸々の理由で行くアテが無いような紳士が即日採用ですぐに個室と三食付きで働けたり、どっかから駆け落ちしてきたカップルが本名を隠して働けたり、はたまたマジ指名手配されてたり…佐藤さんという名の高田さんとか居たなぁ。でもまぁ、スタッフ同士でもそこらへんは深く追求しないのが暗黙の掟だった。今では所轄の警官が定期的に従業者名簿と身分証明書のコピーを確認しに来るので、身を隠す場所ではなくなったのは良いことなのか…な。
打つ側に話を戻すと、台と台の間はサンド1個分の幅しかなくて、今と比べるとめちゃくちゃ狭いのよ。横のオッサンと足が当たるなんて可愛いもので、肩が当たるのも日常茶飯事。
サンドは2台に1個設置、お金を入れてから台間にある筒状の物体を押し上げると玉が中から出てくる仕組みなのだが、これを片手で捌く姿が異常にカッコよく見えてねぇー、何度もチャレンジしてこぼしまくったものでした。しかしこのタイプのサンドって、ボクがスタッフになった頃には絶滅してて、一回分解して中身を見てみたかった。だってこれ、たぶんだけど電力使ってないのよ!?きっとピタゴラスイッチ的な仕組みだったに違いない。
これより前になると、カウンター前に玉とコインのでっかい自販機の時代になるが、それはまたの機会に語るとするべか。
気が向けばつづく
CRAナカムラ
奈良・愛知・岐阜・広島で店長職を10年歴任。その後、大阪の某チェーン店で統括営業本部長職を経て独立。常に打ち手目線を持ちつつ…と言えば聞こえはいいが、この男自身パチンコするのが三度のメシより好きという重症患者。
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